由緒正しきエロティック

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感想狂詩曲-バレンタイン前日に愛を語る-

2015年2月13日に書いたブログを加筆修正して再掲しています。
 
感想文って、難しい。
 
小・中・高校にわたって、きまって夏休みの宿題に出る《読書感想文》が苦手だった。
 
読書は好きだし、「おもしろかったなあ」と確かに感じながら読み終えたはずなのに、
「じゃあ、どこがおもしろかったの?」
と聞かれると、途端に詰まってしまうのは、なぜだろう。
『おもしろかった。』だけでは、400字原稿用紙3枚は埋まらない。あらすじで文字数をかさ増しして、だましだまし提出した。
 
――読書感想文がうまく書けるようになりたい!
 
小学校高学年だった私は一念発起した。
 
今もあるんだろうか。当時は《読書感想文コンクール作品集》という、読書感想文の優秀作品を集めた作品集があった。
四の五のいわず、こういうときは先人に倣えだ。
 
最後まで読んだ。
そして、衝撃を受けた。
 
なぜなら、掲載されているほとんどの作品が
『《読書感想文》という名目の自分語りの作文』だったからだ。
 
《読書感想文》は純度100%、本への感想文でないといけないと思いこんでいた。
だがほとんどの掲載作が、冒頭2割があらすじ、7割が本の内容に絡んだ人の身の上話、締め1割で本の内容に少し触れておしまい。
本来中心でいなければならないはずの本が思い出話の引き入れ役でしかないことや、
「これが《よい読書感想文》とされている」ということが、当時の私にはとてもショックだった。
 
受け入れられなかったから、参考にするのはやめた。
 
結局毎年あらすじで文字数をかさ増しした読書感想文でやりすごした。読書感想文で表彰されている子がうらやましかった。
作品集は、あの日以来読んでいない。
 
◆◆◆
 
時代は変わり、私はすっかり大人になった。
夏休みに読書感想文を書けと宿題を課されることもなくなった。
しかし、《読んだ本の感想》は学生時代よりも、今のほうが断然書いている自信がある。
 
そう。同人誌の感想です。
 
もちろん本だけに限らず。サイトで拝見した絵。pixivで読んだ小説。Twitterで見た考察。その他もろもろ。
同人界は、たいへん感想を書く機会に満ちた場所だと思う。
感想を書くきっかけになる媒体も多種多様なら、送る方法も多種多様だ。お手紙、メール、拍手、最近ならマシュマロやお題箱、pixivメッセージ、ブックマークコメント、Twitterのリプ、DM、LINE。挙げた方法はすべて使ったことがある。場数もまあまあ踏んでいるはずだ。
しかし、《うまく書けているか》を問われると、針を刺された自転車のタイヤみたいに、しょぼぼと自信がしぼんでいく。
 
◆◆◆
 
2014年、年末。
とある素敵な小説を読んだ。読むたびに胸がどきどきしすぎて、一日一作品ずつしか読めなかった。
そんなの初めてだった。
 
感想を書きたい。いや、書かないといけない。
どうしてもこのたぎる想いをお伝えしたい。
でも、書ききれる自信がない。
 
だから、読書感想文の武者修行に出ることにした。
ネットでひたすら読書感想文の書きかたを検索しつづけた。
「読書感想文 書きかた」で検索するとザクザクと引っかかったので、それを片っ端から読んだ。が、どれもこれも、しっくりこなかった。
 
『コンクールに引っかかるような書きかたをしよう!』
コンクールは引っかけにいくものだったのだと、私はこのときはじめて知った。
 
『本の内容に絡めた、自分の体験を書こう!』
いや、ちょっと待って。その方の小説に絡めた自分語りを送りつけるとか、どう考えても迷惑だ。
私が書きたいのは、《同人誌の感想》なんよ。
 
かつての自分が反発心を抱いた《よい読書感想文》の書きかたのノウハウたちがずらずらと並んでいた。つまり、《「大人の目のふるいにかかるには」いい感想文》の書きかただ。
読書感想文の書きかた講座に限らず、書籍紹介サイトなどもがむしゃらに読んだ。
そして、ある程度数を重ねたころからうすうす気づき始めた。
 
《自分語りを必要とされない》感想文。
《一から十まで「本の感想」である》感想文。
 
 
同人誌の感想文こそ、かつての私がこうあるべきだと信じていた
《純度100%の読書感想文》
なのではないか?
 
 
12年間にもわたる学生生活で成し遂げられなかったこと。
そんなもの、簡単に書けるわけがない!
 
 
「書いた同人誌の感想文を送る」点において、一番問題となる部分があります。
その感想文を読むのが、同人誌を書いた作者さん御本人だということです。
 
学生時代書いていたかたちの読書感想文を、作者の先生が読むことはほぼほぼない(と思っている)。あくまで目を通すのは選考に関わる人たちだけだ。だから、あらすじを書いて文字数を稼いだぺらぺらの感想文を提出しても、正直心は傷まなかった。
しかし、当たり前ながら同人誌の感想は違う。
「作者さん」と「感想文を送る私」は、『対面』する。初対面の方なら、100文字なら100文字分の、1万字なら1万字分の「感想文を送る私」が対面する。
逆にいうなら、「送った分の私」だけが、作者さんと『対面』できる。
 
◆◆◆
 
武者修行を一応終え、七転八倒五里霧中で感想文を書き進める過程で、私はまたうすうす気付き始めていました。
 
「そもそも、《同人誌の読書感想文》は、読書感想文ではないのではないか」
 
ここにきて問題の根本を覆す発想。これまでの2000字はなんだったのでしょうか。
違和感を感じ始めたきっかけ。
 
・感想のいたるところに「好きです」という言葉が散見していた。
・それに対して、「自分、めっちゃ気持ち悪!」と思った。
 
気持ち悪いって、どうしてだろう。
語尾にゲヘヘへとか書いてるわけじゃないし、一応文章としては一般的な体裁を保っているはずだ。しかし、気持ち悪い。
では、なにが気持ち悪いのだろう。
 
 
あっこれ、文面に込もっている《愛》が気持ち悪いんだ!
 
 
少し書き進めては読み返し。書き終わってからは読み返し。
この表現で気持ちは伝わるだろうか。
伝えたいけど、伝えすぎて引かれないだろうか。
どうせ全文気持ち悪いんだから細部を直したところでどうしようもないことを自覚しつつも、数えきれないぐらい手を加え。
可愛がっていた日本人形に魂が宿って髪の毛が伸びたり涙を流したりするようになる怖い話とかよくありますが、そんな感じで、文章も執着を持ってこねくりまわしているうちに、怨念じみたものが宿ってくる。ものによっては、狂気を感じるような…。
なるほど。その重い愛がきっと気持ち悪いんだ。
 
 
とどのつまり、感想文というよりはコレ、《ラブレター》なんだ。
 
 
《純度100%の読書感想文》とは、読書感想文にあらず。
ラブレターだったのです。
読書感想文の書きかたを学んでも、そりゃしっくりこないわけです。
立つステージ間違ってた!
 
 
ラブレターを書く際、大意は「渡す相手自身のプレゼンテーション」になることが多いと思います。
渡す相手本人に、相手の素敵なところをプレゼンテーションする。
ほら、この時点ですごく同人誌の感想っぽくないですか?
私はあなたのここが好きです。あなたのこういうところを尊敬しています。あなたがいてくれるから世界がハッピー!
 
 
同人誌を書くときの、独特の気恥ずかしさ。
私は感想を書くたびに毎回「死にたい……」って言ってしまうんですが、
「どうして気恥ずかしいのか?」を考えた末に、重すぎる愛もさておき、そのプレゼンテーションにどうしても書き手の自分の好みとか、性格とか、解釈とか、性癖とか、自らで自らを語る以上に滲み出てくるからではないか、と感じました。
同じ本を読んでいても信仰するCPが異なるように情報をキャッチする脳みそは十人十色ですし、幾重にもかかったフィルターが「二人が部屋で話ししているシーンが一番可愛い!」と感じさせるかもしれないし、「キスシーンが一番!」と感じるかもしれないし、「乳首!!!!!!」ってさせるかもしれないし。
私はピンと立った乳首のトーンにツヤの削りがあるとめっちゃ興奮する。
 
 
渡す相手(作品)のプレゼンテーションをしていたはずが、最高に自分の性癖暴露の場所にもなってしまう。
ラブレターである以上、相手のことを心から思って書いているはずなのに、同時に自分を映す鏡にもなりえている。
だから死にたくなるくらい気恥ずかしい=恥ずか死してしまうのではないか。
 
と同時に、不安も生まれてきます。
 
「これは相手の心を打つのか?」
 
感想を書いているとき、人は孤独です。感想を書く行為は「この気持ちを伝えたい」の自己満足の極みではありますが、送るかぎりは相手の心のミットに当てたい欲が湧いてきます。
しかし「感想文は己を写す鏡」の点を踏まえて、
「自分(読者)としてはここの良さを伝えたいけれど、相手(作者さん)は本当にここを見てほしかったのだろうか」
という疑問が、どこからともなく振ってきます。
 
「『書いた文字の分量分の私』だけが、作者さんと対面できる」
という旨を先述しましたが、
「作者さんが私の告白を傾聴してくださっている、限られた貴重な時間で、自分は的外れのプレゼンをしてしまっていないだろうか」
たとえば自分が営業マンだったとしたら、掃除機がほしいお客さんに洗濯機を薦めていないだろうか。そんな不安にかられてしまう。
 
◆◆◆
 
さあ。
ここまでこの文章を読んでくださった、菩薩のような方がどれだけいらっしゃるのか、私はそっちのほうが不安になってまいりましたけども。ありがとうございます。
 
「もうそろそろ、どうしたらいいのか具体的なアドバイスがくるんじゃないか?」
と期待して、ここまで読んでくださった方がいたら、大変心苦しいのですが。
 
 
そんなもん私も知りたいわ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 
 
結局、疑心暗鬼になりながら、気持ち悪すぎる自分に苦しみながら、下書きをまるごと消したくなりながら、便箋を破り捨てそうになりながら、親の仇のように読み返しながら、送ったあと後悔で地をのたうち回りながら、
自分たちはそれでも、感想を送り続けるしかないのだと思います。
これまでの文章はいったい何だったんだ、というツッコミがほうぼうから聞こえてきますが……。
 
送るかぎりは相手の心のミットに当てたい欲の話。正直、あくまでおまけみたいなものだと思っています。もちろん、感想を送る際、作者さんが目を通されることを第一に作者さんの心を尊重した感想を書くのは大前提です。作者さんが作品に込めたものを、自分なりに拾って伝える。大事なことです。
でも、そこで「相手の機嫌をとるだけの感想」になってしまったら……。それは《純度100%の読書感想文》ではなくなってしまう。
コンクールに引っかけるために書く読書感想文と同じになってしまう。
 
あくまで自分に限る話ですが、
「この感想を読まれて、ドン引かれて、絶縁されたとしてもどうしても伝えたいから送る!」
という気概で感想を送ることにしています。
いや、実際絶縁されたら泣いちゃうけど…。
 
壊れるほど愛しても、1/3も伝わらない。そこまでして1/3も伝わらないなら、送る側の性癖暴露の恥ずか死なんて、どうってことないんです。
いや、本当は膝が震えるぐらい怖い。怖いんですけど、それでも伝えたい思いがあるなら、静かに腹をくくって、エレガントにコートの下をお見せするしかない。
 
◆◆◆
 
感想文について考える機会を与えてくださった作者さんに感想のメールを送ったのは、書こうと思い立ってからしばらく経った12月末でした。
年末という多忙な時期にお送りしてしまったので返信不要の旨は記載していたのですが、新しい年が明けて数日後、ありがたいことに相手の方からお返事をいただきました。あまりに嬉しすぎて、反射的にブラウザを閉じてしまい、1時間ぐらい見なかったことにしたのを覚えています。
 
忘れるように努めていた自分の書いた気持ち悪い感想文を記憶の地獄谷から引っ張りだし、走馬灯のように振り返りながら(「うわ、やっぱ気持ち悪っ!!」)、いただいたお返事を恐る恐る開きました。
お返事には、
「自分の作品は、人の需要とは違うと思いながら書いている。読んでもらえていると知れて嬉しかった」
とつづってくださっていて、号泣しながら読みました。
 
 
感想、書いてよかったなあ。
心の底から思いました。
 
 
需要と違うだなんて、とんでもない。
だって自分は、その方の作品が好きで、好きで、好きで、好きで仕方なくて、だからこそ感想を書かずにはいられなかったのだから。
「あなたの作品が大好きです!」
その気持ちが伝わったことが、なによりも嬉しかった。
それさえ果たすことが出来たならば私は、性懲りもなく恥ずか死から生き返ってきてしまうのだ。
 
◆◆◆
 
感想文は、本当に難しい。
それでも。
 
これからもきっと下手くそなラブレターを書いては、作者さんに送る行為を続けていくのだと思います。
だって、その方自身の魅力を、どうしても伝えたいから。
自分はあなたのこんなところを心から素敵だと思っていて、尊敬していますということをいいたくて仕方ないから。
自分よがりで、勝手かもしれないけれど、どうしても私は、プレゼンテーションがしたいのです。
 
 
純度100%の愛で!
 
おわり(5,260文字)